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作られた文章

潰すか?

 彼がお気に入り、と言ってトランクに詰め込んでいるコレクションを見せてもらったことがあるが、それだけでは有用足り得ないものを好んでいるようだった。アメリカブランドの年代物のグローブはあったが、ボールは友人からその都度借りているようで、確かに彼とキャッチボールをする時に彼がボールを持っていたことはなかった。栞が5枚ほど束になっているものもあった。安い輪ゴムで留めていたが、5枚とも素材はいいモノそうだった(紙のしか使わない自分にとってはあまり興味は沸かなかったが)。定職就かずでフラフラしている時もトランクは大事そうに持ち歩いていたが、中身を見たのは初めてで、どうせ下着とか歯ブラシなんかが容量を喰っているのだと勘ぐっていたが、そうではなかったようだ。どうして今になって見せたのか尋ねたが、程よい返事はなくさっさと帰ってしまった。
 ちゃっかりと、おもてなしと出してた"つまみ"は平らげていたが、酒に口つけず後を去ったのは初めての事だった。特に気にしないように、と思いがけず空いた時間を余った酒を飲んで過ごしたが、夜が更けそうになっても一向に寝付けなかったので、本棚で先に長い眠りを遂げていた探偵小説を叩き起こすことにした。ついでにコーヒーを挽いてグビグビ飲んでいたが、アルコールと混ざり合って気分が悪くなり、毒が廻ったようにベッドに倒れ込んだ。「家に帰るよ」と告げて去った彼の帰路を考えていた所為か、とぼとぼと暗闇を歩く夢を見た。彼が漸く決めた家、を自分は知らないのでいつもの散歩道だとか、ライトが光る住宅街ばかりが背景となって、隣にいる彼は錠剤を指で挟んでリスのように齧っていた。丁度去り際と同じセリフを吐いたところで目が覚めた。他愛もない夢だった。
 結局、二日酔いがやってきて、呆けて暮らしていたが、サイドテーブルに置いてあった彼の忘れ物に気づいたのは正午をまわった頃だった。私物のコップ、の横に赤のルークが横になっており、そういえば例のトランクに赤い駒だけが几帳面に収めてあったのを思い出す。彼は「セイウチの牙で作ったんだ」と冗談を言っていたが、安い篆刻用の石を削ったのだろう下手くそな城だった。机の上に並べて彼は自慢気だったが、将棋しか指せない自分は彼と対局したことはなかったし、彼もそれは知っていた。コップは洗った。
 濡らしたタオルで体を拭いて7月の熱気に備えてみたが、扉を開けた途端に耐えられずに昼食は諦めてしまった。ソファに身を預けると硬い物体が腰に当たった。ソファの間にリモコンでも落としたか、と弄ってみると黒い装丁のCDケースが現れた。ルークとは違って、どうにも忘れ物とは思えず中を開いてみた。120mmのCD-ROMがオス・メスをかっちりと嵌めて収まっていて、表面の白に手書きで文字が殴られている。That is not dead which can eternal lie, And with strange aeons even death may die.彼の意図は不明だが手繰り寄せるのに気が乗らないのは、自室にこれを再生できる機器が存在しないからである。言い訳としては十分だった。でもどうやら彼とは再び会えないような気がした。気まぐれに赤に塗られたルークを逆さに立ててみたが、バランスを失って自立することはなく、朝これを見つけた時のように寝っ転がり、しばらく見つめていたが起き上がることはなかった。
 夜、また夢を見た。彼と一局指す夢だったが、自分は桂馬を進めたかと思うと、彼はナイトを手にとった。最後は彼のチェックメイトで終わったが、彼の赤い駒は全て板状から消え失せて彼自身もまた、一瞬赤く染まったかと思うと、「俺も退隠だ」と言って海に沈むように消えていった。夢から覚めた後、「お別れ」と言って赤いルークに手を振った。